種の寄贈
種の寄贈
ご報告させていただきます。
11月6日日曜日にひまわり団体様第一号
に、皆様に育てていただきました福島ひまわり里親プロジェクトの種をひまわりメンバーでお渡しに行かせていただきます。
奥様を津波でなくされる中、ひまわりで生きる力を、希望の光を奮闘されていらっしゃる方だそうです。
現在、NPO法人なごみの里さまにていただいた種を再度かわいいパッケージに封入していただくお仕事をおねがいして
第二弾の雇用支援プロジェクトを開始させていただいています。
「ほら、大根の葉が伸びている」
1日朝。南相馬市原町区萱浜の農業八津尾初夫さん(61)の厳しい表情が、少し和らいだ。
しゃがんだ足元の畑には、4月9日に種をまいたという大根の子葉が開き、小さな本葉も出ていた。長さ約10メートルのうねの別の列にも淡い緑が見える。ほうれん草の芽だ。
畑は、3月11日に大津波に襲われた被災地にある。海岸から西に2.5キロ離れているが、そばの民家の外壁には高さ約1メートルほどの泥水の線が残る。周囲の田畑には人影もない。
「野菜の栽培試験を始めたんだ」と言う。潮をかぶった畑にはジャガイモも植え、小さなビニールの覆いの中でカボチャの苗も伸びている。
野菜と花の育苗ハウス60アール、ブロッコリー畑9ヘクタール、水田15ヘクタールを経営していたが、津波は農地も自宅も、妻一(かず)子さん(58)の命ものみ込んだ。それでも、と言う。
「また農業をやりたい。できるものから栽培を試し、ここで生きていけると実証したいんだ」
被災前は、自宅の周りのハウスや畑に4時間かけて水をやるのが朝仕事だった。原町区の親類宅に身を寄せる今も毎朝午前2~3時に目が覚め、海岸近くの自宅の跡に「4時半には出勤している」。
壊れた農業機械から使える部品を回収したり、一子さんの遺品を探したりしてきた。
「形見になったのは黒地に銀模様の帯だけ。踊りの名取で」。襲来した大津波に、家から別々の車で逃げる途中で巻き込まれた妻を思い、八津尾さんは声を詰まらせた。
26歳で見合い結婚をした。翌年、稲作と養蚕に生きた父とは違う農家像を求めて、小さなハウスでの野菜作りを2人で始めた。「余分な苗を種苗市に出したら売れて、演芸ブームにも乗り、種類も規模も年々広げた」
近隣の農家仲間と苗作りの研究を重ねた夫に負けず、一子さんは経営計画やパートの労務管理を担い、企業的経営の夢を二人三脚で育ててきた。
八津尾さんが福島県の農業賞(農業経営改善部門)に選ばれたのは4年前。その時のクリスタルの盾が津波の跡で見つかった。自宅から数百メートルの畑の土に横たわって。
「賞の半分は女房の力だった。お棺に入れてやろうとした。でも、できなかった」。まだ、やるべき仕事が残っていた。
萱浜地区は、福島第1原発まで二十数キロ。爆発事故の後、八津尾さんは次女のいる東京に避難したが、すぐ戻り、身内の高齢者を世話したり、「復旧作業に役立つ」と大型車の免許を取ったりし、種まきの時期を待った。
「塩害デスト栽培」の小さな看板を立てた畑にはその後、インゲン、枝豆、トウモロコシの種をまいた。もうじきトマトやナスの苗も加わる。
「大根などの成長は少し鈍いが、収穫まで見守り、何の品種が塩害に強いか―の生きた情報を、農家や県に提供したい」
津波では、70戸あった萱浜地区のほとんどの家が流された。八津尾さんは先日、犠牲となった区長の後任にも選ばれた。
「企業的農業の夢を若い人につなぎ、地元で農業をして食っていけるよう、もうひと頑張りだ」
妻の2度目の月命日に線香を上げ、誓った。
(寺島英弥)